”私はあなたを忘れない”
カトリック鹿児島司教区 中野裕明司教
この度、屋久島に「屋久島シドッティ記念館」ができるという企画をうかがい、関係者の一人として、心から歓迎し、応援したいと思います。
私はカトリック教会の司教で、鹿児島教区の教区長を務めております。司教という役職は、ローマ教皇による任命であります。屋久島に密入国したシドッティ神父もカトリック司祭で、ローマ教皇庁から派遣された宣教師でした。その意味で、私とシドッティ神父は同じ組織に属し、同じルーツを持つ者同士であると言えます。
従いまして、この事業は本来なら、私どもが主催して行うべきところですが、いろんな点で力不足のためにそれは叶わぬ夢でした。
この度、このような企画が発動するようになったことは、まさに摂理的だと言わざるを得ません。ちょうど、点が線となり、縦の線ができて立体となっていくように、シドッティ神父の全容が明確になっていくに違いありません。
シドッティ神父の人物像、その業績、来島の意味、歴史的意義など現在のところ、一般に知られていないことが多いです。それらについては、記念館が完成した折に十分知れ渡ることになるでしょう。
この記念館の建設計画が着手するまでの歴史的経緯をお話しいたします。
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フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を広める。(1549年)
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徳川幕府時代、キリスト教は禁教とされ、宣教師は国外へ追放される。(1640年代が最後)
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ローマ教皇庁に勤めていたシドッティ神父はキリスト教への弾圧が厳しい日本の状況を把握しており、日本人信者たちの状況を危惧していた。
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ローマ教皇庁の高官だった立場を使って、日本への潜伏を企画し、実行に移すために、マニラ(フィリピン)に渡る。
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禁教令下の日本に潜入することは、直ちに捕縛されることは承知の上で、単独で屋久島へ上陸する。
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案の定、奉行所に連行され、新井白石の尋問を受ける。
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尋問の中で、潜入の目的を聞かれたところ、日本の皇帝に謁見して、禁教令の解除を願うと答えている。
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幽閉されていた江戸の切支丹屋敷で世話役の夫婦に洗礼を授けた、という理由で独房に入れられ、餓死する。(1714年)
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1940年代以降、日本で働いている各修道会の宣教師(主にイタリア人)がシドッティ神父についての啓蒙を始める。
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特にコンタリーニ神父(聖ザベリオ宣教会)は屋久島に在住し研究を進め、上陸地を確定し、教会を建立する。(1988年)
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シドッティ神父に関する研究資料を屋久島在住の作家の古居智子氏に委ね、死去する。(1998年)
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古居智子氏「密行 最後の伴天連シドッティ」を出版。(2010年)
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東京の切支丹屋敷跡からシドッティ神父の遺骨が発見される。(2014年)
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東京で発掘されたシドッティ神父の遺骨のニュースはイタリアへ飛び、シドッティ神父の故郷、パレルモ(シチリア)教区司祭、マリオ・トルチヴィア神父へ届く。(2016年)
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古居智子氏の上記の本がイタリア語とフランス語に翻訳され、無名のシドッティ神父のことが西洋で流布される。(2017年)「密行 最後の伴天連シドッティ」を日本語増補版を出版。(2018年)
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上記のマリオ神父がシドティ神父のカトリックの視点から書かれた研究書を日本で出版。(2019年)
こうして、300年の時を経て、一人の宣教師の生きざまが、突然21世紀を生きる私たちの前に現れることになりました。16個だけの主な項目をとり上げてその経緯を記しましたが、勿論その背後には無名のキーパーソンが無数にいます。それらの内のどなたが欠けても、今回の記念館設立計画には至らなかったのではないかと思います。
今回の事業はそれぐらい希有な出来事であると思っています。
最後に、シドッティ神父と私たちキリスト教信者、そしておそらく屋久島の方々にも共通であろう想いを、聖書の言葉で表現したいと思います。
「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私(神)はあなたを忘れない」(イザヤ書 49章15節)