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シドッティ神父の生涯

文・古居智子(『密行 最後の伴天連シドッティ』より抜粋)

シチリア島パレルモ

 イタリア人宣教師、ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti )は1668年、イタリア南部地中海に浮かぶシチリア島の中核都市パレルモで貴族の家の次男に生まれた。パレルモはラテン、ギリシャ、アラブの三代文化が重曹的に融合した独自の風土をもつ国際色豊かな街であった。シドッティは小高い丘の上にある「パレルモ大聖堂」併設の神学校で22歳まで学び、卒業後は海を渡り「永遠の都ローマ」を目指した。

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パレルモ大聖堂
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シドッティが通った小神学校

ローマ、ヴァチカン

 ヴァチカンで神学だけでなく数学、修辞学、哲学、物理学、倫理学など当時のヨーロッパ最高水準の学問を習得したシドッティは、若くして裁判諮問官に抜擢され、司祭としての輝かしい前途が約束されていたが、­32歳になった時に突然、鎖国中の日本への布教を教皇に願い出た。そして3年間、教皇庁布教聖省のウルバニアナ大学で日本の言語と文化を学んだ後に、「日本が布教を許すようになれば」という条件付きで日本に向かう使命が与えられた。

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ローマ教皇庁(ヴァチカン)
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布教聖省直属の教育機関であるウルバニアナ大学

極東へ

 1703年7月上旬、35歳のシドッティはジェノバからジブラルタル海峡を抜け、アフリカ南端の喜望峰を周り、インドを経てマニラに至る航海に出た。それは、暴風雨、猛暑による食糧や飲料水の欠乏、マラリアやコレラといった伝染病に悩まされる危険に満ちた1年余りにおよぶ長い過酷な旅だった。

ジェノヴァからインド航路経由でマニラを経て屋久島へシドッティがたどった道

マニラ時代

 1704年7月21日、マニラに到着したシドッティは病人の世話や地元民のための神学校設立などに勢力的に働いた。一方では、切支丹追放令で日本を追い出された高山右近や内藤如安の子孫らが住む日本人町に出向いては渡航に必要な物資を仕入れ、旅の準備を着々と進めた。4年後、念願の神学校が完成した翌年に、シドッティの強い意志に動かされたマニラの人々は新たに帆船を建造して彼を見送った。日本は相変わらずの鎖国状態で、教皇の許可を得ないままの命をかけての単独の船出であった。

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シドッティが建設に力を注いだマニラの「聖クレメンテ神学校」(現・聖カルロス神学校提供)

屋久島上陸

 シドッティを乗せた船はマニラの港を出てから、先島諸島、琉球諸島、奄美群島、トカラ列島へと続く島々に沿って針路を北北東にとった。そして、強風と高波に翻弄されながらも船出から50日目、ようやく上陸できそうな高い山がある島の南岸に辿り着いた。シドッティはヴァチカン宛ての最後の手紙を認めるとサムライ風に扮装し、ミサの道具や聖母マリアの画を入れた木綿の袋だけを手に岩壁が連なる入り江に向かう小舟に乗った。1708年10月11日深夜のことだった。

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シドッティを乗せた「サンタ・トリニダード号」と同時代の帆船

シドッティを乗せた「サンタ・トリニダード号」と同時代の帆船

サンタ・トリニダード号のマニラから屋久島までの航海路推定図

恋泊村の藤兵衞

 翌朝いつものように薪を伐りにやってきた恋泊村の藤兵衞は、松林のなかで突然、異様な風貌の男に遭遇した。月代に髪を整え、羽織袴に日本刀を身につけたサムライ姿ではあるが、「その顔つき、その言葉、この国のものにあらず」であった。気の毒に思った藤兵衞は、平内村の五次右衛門と喜右衛門を呼んで、男を自宅に連れ帰り、食事と寝る場所を与えた。男はお礼に金塊を渡そうとするが、誰も受けとろうとはしなかった。恋泊村に10日間余り滞在したシドッティは、村人たちと親密な時間を共有したと想像される。

シドッティと藤兵衛遭遇の図
屋久島全島図

シドッティと藤兵衛、遭遇の図(マウロ・モラレッティ作 油彩画・屋久島シドッティ教会記念教会所蔵)

長崎奉行所

 やがて、シドッティは薩摩の国を経て長崎奉行所に連行されて取り調べを受けた。禁教の伴天連(外国人宣教師)であることがわかったため、処刑するのが妥当な判断だと思われた。しかし、時の将軍綱吉が麻疹で急死したため、次の将軍家宣の側近であった新井白石の希望により江戸に送られることになった。まさに危機一髪のところで命を救われたシドッティは罪人が運ばれる小さな籠に入れられ護送された。江戸切支丹屋敷に到着した時は立つこともできなかったという。

シドッティの護送に使われた唐籠

囚人駕籠(唐丸籠)シドッティを江戸に護送するのに使われた

シドッティの時代の切支丹屋敷想像図

シドッティの時代の切支丹屋敷想像図
(『殉教者シドッティ』ドン・ボスコ社)

新井白石の尋問

 切支丹屋敷吟味の間にて、1709年12月22日から翌年1月3日にかけて計4回にわたり、新井白石によるシドッティ尋問が行われた。江戸随一の知識人であった白石の興味は、シドッティの背後にある西洋にあった。世界地図をはさんで対峙する2人は、白石が「響きに応じて鏡を照らすごとくであった」と感想を述べたほど、旧来の知己のように心が通じ合った。白石の世界観も大きく広がった。「キリスト教は宗教のひとつに過ぎず、謀略の意図はない」と当時の鎖国政策をくつがえす画期的な結論に至り、本国送還が上策という案を出したが、幕府が選んだのは、終身幽閉という処置だった。

新井白石

新井白石の肖像画

ブラウの世界地図

シドッティ尋問の際に使われたブラウの『新世界全図』(東京国立博物館蔵)

切支丹屋敷での最期

 金20両5人扶持、さらには祈祷書の所持も許可されるという厚遇で、シドッティの幽閉が続くなか、将軍の代替わりで新井白石は政治の中枢から姿を消した。そんなある日、シドッティの身の回りの世話をしていた長助、はるの老夫婦が洗礼を受けていたことが発覚、3人は地下牢に入れられ、次第に食糧を減らされた。老夫婦の死を看取った後、1714年10月21日の夜半、シドッティは静かに息を引き取った。屋久島に上陸してから6年、47歳という若さだった。3人の遺体は屋敷の裏門近くに埋葬された。

 シドッティの死を知った白石は『西洋紀聞』『采覧異言』を書き上げて、シドッティが生きた証を世に残すとともに、その後の幕府の対外政策に大きな影響を与えた。

西洋紀聞

『西洋紀聞』新井白石著 明治15年刊 

(野田宇太郎文学資料館蔵)

采覧異言

『采覧異言』新井白石著 明治14年刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)

そして、300年後

 シドッティが埋葬されてから、ちょうど300年目にあたる2014年の夏、今や住宅地となっている東京小石川の切支丹屋敷裏門跡の一画から3体の遺骨が発掘された。DNA鑑定など詳細な科学的調査の結果、シドッティと長助、はるのものであることが証明され、世界中を驚かす大きなニュースとなった。

 3世紀という長い時を経て、この世に再び姿を現したシドッティは、現代の我々に何を語ろうとしているのだろうか。

共同通信シドッチの遺骨出土
シドッティの遺骨出土状況

シドッティの遺骨出土状況(文京区教育委員会)

共同通信 2016年4月5日

シドッティの復顔

遺骨をもとに製作されたシドッティの復顔(国立科学博物館)

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