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埋もれていた史実が解き明かす

     シドッティが伝えたレガシーについて

シドッティ屋久島上陸は、技術立国日本の礎となったできごとであった

 ローマを出てから5年の歳月を経た1708年、イタリア人シドッティが屋久島に上陸しました。日本が国を閉ざしてから70年近く経ち、唯一の貿易口だった長崎から入ってくる洋書も禁書令によって制限され、世界情勢を知る機会が極端に少なかった江戸中期のことでした。

 一方、シドッティはキリスト教宣教師でしたが、数学、物理学、地理学、地質学、修辞学、哲学、論理学など当時のヨーロッパ最高水準の学問を習得した知識人であり、科学革命の勃興に伴って生まれた理性による普遍性を唱える啓蒙主義時代の申し子でもありました。

フランシスコ・ザビエル以来、鎖国前夜までに日本を訪れた他の外国人宣教師と比べて、シドッティが大きく異なる点は、まさにこの背景にある時代性でした。

 シドッティが新井白石を通して伝えた“西洋”は、鎖国の中で眠っていた日本人の世界認識と視野を一気に押し広げ、その後の科学技術の発展を促すきっかけとなりました。日本の歴史を大きく転換させ、現代の技術立国日本の基礎を築いたと言っても過言ではありません。

 

近代人、新井白石を驚かせたシドッティの知見

 江戸時代随一の学者で、将軍の側近という政治力を持ち、時代を先取りした理性的な近代人でもあった新井白石は、江戸にシドッティを呼び、公式には4回にわたり尋問、また非公式に何度も会見し、その深い知識と教養に驚嘆しました。「一生の奇会であった」「響きに応じて鏡を照らすようであった」という感想を残しています。

ピタゴラスの定理を応用して影を測って時刻を言い当てたり、地図にコンパスを当てて国の名前と位置を示したり、地中海を航行する軍艦の様子を描写したりと、シドッティは西洋の科学技術、軍備、地理、歴史などを目に見えるかたちで白石に示しました。

「天文地理の事に至っては、とうてい及ばない」と素直に脱帽した白石は、シドッティから学んだ話をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著し、日本人の目を世界に向けさせて、科学知識の吸収を目的とした蘭学の隆盛や禁書緩和令、そして幕末の開国機運へとつなげました。

 

残された軌跡から読み取るメッセージ

 白石の尋問の後、シドッティは江戸切支丹屋敷に幽閉され、身の回りの世話をしていた老夫婦に宣教した咎で地下牢に閉じ込められたまま殉教しました。屋久島に上陸してからわずか6年、日本での日々は短いものでしたが、彼が生きた証は驚くほど多くの歴史的遺産として今に残されています。その一例をあげます。

・マニラから屋久島までシドッティを運んだ船長の『航海日誌』(バチカン図書館所蔵)

・上陸時に持っていた「親指のマリア」の絵(東京国立博物館所蔵 重要文化財)

・新井白石がシドッティ尋問時に使った大型の世界地図(東京国立博物館所蔵、重要文化財、2m×3m 15ヶ所に新井白石自筆の付箋付き)

そして極めつきは、没後ちょうど300年にあたる2014年に切支丹屋敷跡(東京都文京区小石川)で偶然に発見されたシドッティの遺骨です。

 歯の裏にわずかに残されていた細胞がミトコンドリアDNA鑑定という最新の現代科学によって解析され、シドッティ本人の遺骨であることが確定されると世界を驚かせる大きなニュースになりました。少し前に発見されていたらその解析技術はなく、また少し後で発見されていたら鑑定に足る細胞は失われていたであろうという絶妙なタイミングでした。

 「彼(シドッティ)の延長線上に現在の科学があり、それがシドッティを再びわれわれの前に出現させることになった」(国立科学博物館副館長篠田謙一)

 DNA鑑定後に、頭部の骨に肉付けを行いシドッティの顔を復元することに成功した研究者の言葉です。この言葉に凝縮されるように、3世紀の時を経たシドッティの再出現は、時間と空間を超越した壮大なメッセージを発しているように思えます。

 

シドッティ上陸地屋久島で私たちが描くSDGsの世界観

 マニラでの現地人のための神学校建設、そして日本に向かう帆船建造も、シドッティは頑固な反対の声を押し退け、自らの手を成し遂げました。今でいうクラウドファンディングの手法で多方面から資金を集め、さらに貸し付けによる資産運用をして実現させたのです。シドッティのこの現実的な視点に裏付けられた揺るぎない情熱に、多くの人が協力の手を差しのべました。ちなみに彼が作った学校は現存し、今なお有能な若者を輩出する勉学の場となっています。

 日本においてシドッティが自由な身で交流した唯一の庶民は、上陸直後に出会った屋久島の村人でした。突然目の前に現れたサムライ姿の異国人の姿に驚愕しながらも、村人は自宅に連れ帰り、食べ物と寝る場所を与え、お礼に差し出された金貨には手も触れませんでした。

これらの文脈から読み取れるのは、周りの人々を惹きつけてやまないシドッティの果敢な行動力と穏やかな人柄、そして人間が普遍的にもっている受容の心です。

 

 このように日本の科学技術の発展に貢献し、次世代を育て、パートナーシップの原点を示したシドッティのレガシーを継承する場所は、彼が上陸地として選んだ屋久島が最もふさわしいと考えます。未来へと語り継がれるべき、“時空を超えた物語に出会える場”がそこにあるからです。屋久島の新しい魅力の発信基地として、歴史と自然と人をつなぐ空間として、「屋久島シドッティ記念館」を地域住民と外部支援者との協働で構築したいと思います。

 建設予定地は山と海が眺望でき、田園に囲まれ、遊歩道が整備された森もある上陸地近くの集落の里です。誰もが歴史、文化や人に触れ、身近な自然が楽しめる場を人々の協力で作り、住み続けられるまちづくりを目指すというSDGsの理念に沿ったこのプロジェクトは、困難な時代を迎えている“今”だからこそ必要とされるコンセプト・モデルであると考えます。

 屋久島を訪れる人、屋久島を故郷と呼ぶすべての世代に向けて、ワクワクする未来を創るための羅針盤となる“私たちのレガシー”を遺したいと願っています。

 

   NPO法人やくしま未来工房「屋久島シドッティ記念館設立委員会」理事長 古居智子

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